潤う僕たちは加湿器と旅に出た

加湿器のある世界を喜んでみる

5. 再起動と解放される記憶

time 2024/12/16

夜闇がビルを包み込む頃、俺は用意した防塵マスクを着け、懐中電灯と工具を手に、あのフロアへと向かった。もう後戻りはできない。加湿器が放つ奇妙な蒸気を浴びれば、再び記憶や精神が揺さぶられる可能性がある。だが、それでも前へ進む以外に選択肢はなかった。

加湿器のスイッチを再び入れると、蒸気がゆっくりと立ち上った。前回より少し濃密に感じる。マスク越しでも鼻を刺激する甘い香り。その中を慎重に歩き、観察室を通り過ぎ、さらに奥の扉へと向かった。
古びた扉の錠前は錆びついていたが、湿度が増しているせいか、力を込めるとわずかに開いた。中は制御室だった。壁一面に並んだ古めかしい計器類、モニターらしきブラウン管、そして加湿器を遠隔操作できる端末が据え付けられている。

端末にはパスコードロックがかかっていたが、周囲の書類を漁ると、メモ用紙に数字が走り書きされている。「1206」──ためしに入力すると、端末は起動し、画面には「最終試験モード」の文字が浮かび上がった。

モードを切り替えるためのメニューが表示され、「停止」「排水」「通常加湿」「治療モード」などが選択できる。俺は「停止」を選ぼうと指を伸ばしたが、その一瞬、蒸気の影響か、思い出したくもない過去が頭をよぎる。幼い頃、病気がちだった俺を支えてくれた母の手の温もり。加湿器の白い蒸気が部屋中に広がり、優しい光の中で安眠した夜。それらの記憶が鮮明によみがえる。

なぜ、今こんな時に。装置は人間の心を操ることができるのか? それは恐ろしいが、同時に救いでもあると感じた。過去の痛みが和らぎ、心がほぐれていく。だが、ここで流されてはいけない。俺は意志を振り絞り、端末の「停止」ボタンを押した。
画面の表示が変わり、加湿器のモーター音が次第に弱まっていく。蒸気が薄れ、部屋の湿度が落ち着いていくにつれ、頭の中の甘い記憶も徐々に現実感を取り戻す。

外へ出ると、廊下にはもうあの強烈な香りはない。加湿器は沈黙し、静かにそこに鎮座しているだけだ。金属光沢は埃でくすんでいるが、その内側に秘められた力は、今、俺によって封じられた。もし、この技術が正しく使われれば、人々の心の傷を癒す手段になるかもしれない。しかし、過去の研究者たちはその使い道を見誤った。だからこそ、この区画は立ち入り禁止とされ、加湿器は放置されてきたのだ。

翌朝、俺は上司に報告した。何もなかった、と。ただの古い加湿器が残っていただけ、と嘘をついた。なぜなら、この装置を再び誰かが悪用しないようにするためには、真実を隠すしかないと思ったのだ。上司は特に疑いもなく、俺は黙って部屋を出る。

ビルはこれから改装され、新たな商業施設が入るという。あの加湿器も、やがて廃棄されるかもしれない。だが、もし誰かが再びあの装置を目にしたとき、せめて悪用ではなく、心を癒す道具として用いることを願う。

乾燥した世界に、わずかに残る湿り気の記憶。それは加湿器が残した、奇妙で穏やかな痕跡だった。俺はその痕跡を胸に刻み、静かにビルを後にした。

<完>

 
 
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湿り気の記憶

目次:

1. 閉ざされた廊下と巨大な加湿器

2. 忘れられた記録と調査の始まり

3. 奇妙な蒸気と記憶の断片

4. 研究者たちの野望と封印の理由

5. 再起動と解放される記憶

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