2024/12/16
湿り気の記憶
「この先立ち入り禁止」
そう書かれた横には、無造作に大型の加湿器が置かれていた。まるで旧時代の産物が忘れ去られたような、その金属光沢を帯びた機械は、埃にまみれ、コードが床を這うように伸びている。場所は市郊外にある巨大な廃ビルの内部で、かつてはクリニックや研究施設として使われていたと噂されているが、今はその面影すらほとんど残っていない。このビルは誰も寄り付かない幽霊屋敷のような存在だったが、主人公である俺──名を八洲雄(やすお)という──は、内装補修を請け負う業者の一員としてここに来ていた。
このフロアは本来、立ち入りが制限されている区域だった。誰もが敬遠するこのビルの中で、特にこの階は奇妙な空気が漂っている。ほとんどの部屋は鍵が掛かり、記録も残されていない。にもかかわらず、廊下の片隅には巨大な加湿器が一台、ポツンと置かれている。その姿は奇怪だった。周囲は乾燥している。壁紙はひび割れ、床板が軋み、窓ガラスには汚れがこびりついて外光を遮る。その中で、その加湿器は存在自体が浮いているかのようだ。
なぜこんな所に加湿器があるのか。しかも、これほど大型のものは普通の家庭用とは異なる。工業用か、もしくは医療施設特注品のような特別仕様品かもしれない。電源コードは奥へと伸びているが、挿し込まれたコンセントは見当たらなかった。周囲を見渡しても、電気を供給するような設備は朽ちているか、壁の内側で断線しているはずだ。
試しに俺は加湿器の側面を指でなぞった。ざらりとした触感と、手につく埃。動いている様子は微塵もない。そのとき、頭の中で奇妙な想像がよぎる。この加湿器は、あたかも「ここから先は入るな」という無言のメッセージを強調するために置かれているのではないか、と。もしくは乾燥を嫌う何者かが、この閉ざされた先で生き延びようとした残滓か。考えれば考えるほど、不可解な光景だった。
俺が所属する内装補修チームは、このビルを再利用する計画の一環で、各フロアの安全点検や修繕可能性を評価する役割を担っていた。だが、このフロアだけは「触れるな」という上からの暗黙の指示があった。上司からは「君は手を出さないでくれ、調査隊が後から来る」という風に言われていた。だが、その調査隊はいつまで待っても来ない。俺はじっとしているのが性に合わなかった。どのみち手持ち無沙汰なら、少し調べてみても罰は当たらないだろう。
加湿器には、古いラベルが貼られていた。「SHIKI KOGYO CO.」と読み取れる。聞いたことがない会社名だ。近くの壁には、同じロゴが色褪せて残っている箇所がある。ここは、その会社が関与していた部屋なのか? 奥に続く廊下は薄暗く、剥げかけた蛍光灯が微かに瞬いているだけだ。扉は幾つか並んでいるが、どれもカギがかかっているらしい。
俺は慎重に加湿器の後ろ側を覗き込む。コードは壁を貫く小さな穴へと続いているようだ。その先には何がある? なぜこの機械だけが、こんな形で残されている?
そのとき、不意に鼻腔をかすめる違和感を覚えた。乾燥した空気の中に、ほんのわずかな湿り気、あるいは金属臭とも言えぬ曖昧な匂いが混じっている。まるで、長い年月を経ても微かな生命維持を行っている装置のように、加湿器はそこに佇む。俺は無意識に、加湿器のスイッチがどこにあるのかを探り始めていた。
ふと、背後の通路で何かが動いた気配がした。振り返るが、誰もいない。風も通らないこの場所で、埃が舞っただけかもしれない。
「ここで何が行われていたんだ…」
独り言を呟くと、その声は乾燥した空気に吸い込まれ、何の反響も残さなかった。俺は、この加湿器が秘める意味を探るべく、もう少し奥へ踏み込んでみることにした。禁を破るようで気が引けるが、好奇心と不可解な違和感が、足を止めてはくれなかったのである。
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湿り気の記憶
目次:
1. 閉ざされた廊下と巨大な加湿器